アディオス、メキシコ・・・約束の地へ。

出発直前のドクターチェックで、いきなり、「ちょっと今回は止めたほうがいいよ。」と、寝耳に冷や水。咳もガホゲホ出るし、どうもカラダの節々が痛いなと思っていたら、知らぬ間に風邪をこじらせていた。インフルちょい手前ってやつですか。まあ、フィッシングショーから寒中テストまで休み無くぶっ通しで仕事だったもんだから休暇もとれず、毎年のことながら、結構ムリが祟っていたのだろう。でも、これを逃すと次はいつになるかわからないので、医者の助言もそこそこに、薬を大量にもらって飛行機に飛び乗りました。今回ばかりは、行かなきゃならない理由があったから。

 

伊東由樹

 

ルートは、まずは、成田からロスへ。ロスからニューメキシコへと飛び、ニューメキシコからマサトランへと、小さな飛行機に乗り換えて飛び、マサトランからさらにクルマで2~3時間ほどゴトゴト行く。目的地は、めっちゃ遠かった。22~23時間かかりました。

メキシコ、マサトラン地方の端っこは、メガバスUSAの前社長、故・村山昌明が、何度も私を誘っていた約束の地。当時の私は、どうにも忙しすぎて時間のやりくりができず、その約束を反古にしてしまった。生前、なぜ彼は、私とここへ来たかったのか?今となっては、聞く術もない。だから、行くしかなかった。

 

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メガバスUSA設立15年目の年、彼は現地でロッジの予約までしてくれたのに、私はといえば・・・急な都合で約束を果たすことができなかった。たしか当時は、日本で沸き起こった外来魚防除法の対応で、日本の釣りの未来を案じて、国内で法案可決の反対運動をしていたときだった。正直、メキシコどころじゃなかったというのが理由だったと思う。その後もフィッシングショーのスケジュールやら、その他案件やら何やかんやらでキャンセル続き。

そのたびに村山からは、がっかりされたのだが、アメリカを中心にグローバルにメガバスの活動をする彼には、そうしたこちらの細事がなかなか伝わらず、「伊東さんは、毎年この時期になると俺との大事な約束を破るなあ・・」と苦笑いされ、呆れられたのを覚えている。その時、「男と男の約束。メガバスUSA創立20周年の時には必ず行こう!」と、私から再度約束するはめになったのだが。そして、約束の年の出発直前。村山さんは永遠に帰らぬ人となってしまった。癌だった。

 

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病室で、「伊東さん、とうとう行けなかったね。」と静かに笑いながら、私とこれからやりたかったこと、行きたかった場所、果たしたかった夢などを、彼らしい穏やかな口調で語り出したのが、とても辛く切なかった。ご遺族からも、私との旅を毎年心待ちに楽しみにしていたのだと、お会いするたび言われると、胸が締め付けられる状態が続いていた。そんな経緯があったから、今回は何をさておいても行かねばと、現地に飛んだのだ。彼との果たせなかった約束を果たすためだけに行ったともいえるメキシコ。ただ、今頃になって、ふと冷静になって考えると、不可解に思うこともあった。そもそも、なぜメキシコだったのか? 生前、ちゃんと聞いておけばよかった。

正直、個人的には、単に大きな魚を釣るだけならば、琵琶湖や池原ダムのほうが確率が高いし、アメリカにだって、イザベラとかキャシータス、オキチョビなど、デカバスフィールドが他にも沢山あることを知っている。それは当時の村山さんも知っていた。なのに、なぜ村山は、私とメキシコに行きたかったのか。そこには釣りとは全く別の意味というか、思惑があったのかもしれない。そんな話をディレクターとしていたら、「では、それを確かめに行きましょう。」ということになった。今回の旅は、もともとは、ガチなテスト現場の撮影とモンスターハンティングという、局側のオファーから端を発している。しかし、次第に謎解きのプライベートな旅の様相を呈してきた。運命の歯車は、ふとしたことから噛み合うことがある。メキシコが、私を呼んでいるのだ。

 

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村山の死後、メガバスUSAは、彼のいない20周年を迎えた。そして、新たにMOA(メガバス・オブ・アメリカ)となり、故人の意向を反映して、私が彼の跡を引き継ぐかたちで社長に就任することになった。ちょうど今から21年前、村山と一緒に北米でメガバスUSAを立ち上げた。冬はマイナス30度にもなる極寒の地、マサチューセッツの山奥だ。社屋の目前を流れるディアフィールドリバーでは、バスが釣れる。スモールマウスバスだ。当時、彼は、「俺たちは、ロッド1本手にすれば、世界と渡り合えるし、つながっていける。実際、こんな僻地でも、ロッド1本で伊東さんと魚がつながった。これから、世界中のバスを釣って、アングラーの輪をつなげていこう。」と言っていた。大層なことを言うロマンチストだと思った。しかし、その日を境に有言実行。私と彼は、そこを拠点に全米をまわることになった。

当時、夢はあっても営業力がなかった我々ふたりの日本人にとって、グローバルな販路を築くためにとった戦略は、ごくシンプルなものだった。村山の奇策だ。製品開発者である私がアングラーとなって、コンタクト先のショップ契約プロやプロガイドたちと1DAYのマッチプレー(釣り対決)をする。こっちが勝ったら、30ケのメガバスルアーを仕入れてもらう。こっちが負けたらアメリカンルアーの在庫をこっちが30ケ買い取るというものだ。いわば、湖上のストリートファイト。タイマン勝負。ルールは簡単。同じ船に乗って一日釣りをして、リミットメイクなし。規定時間までに釣った総水揚げ量(総重量:ポンド測定)が多い方が勝ち、という漁師ルール。西海岸での対戦相手には、今ではファミリーになったアーロンもいた。村山は、このストリートファイト営業(?)のマネージャーという立場で、日本の雑誌社とタイアップし、14の対戦カードをメイク。共に、北はバーモント州やニューハンプシャー、西はカリフォルニア、中西部はアーカンソーやテキサス、東はノースキャロライナに至るまで、14の州で対戦を決行。この模様は、2戦は、雑誌「ルアーフリーク」に掲載され、勝負は私が全勝。残り12戦も、当時のバスワールド誌「タイトル(同船者には絶対負けん!)」で連載された。結果、12戦11勝1引き分け、という好戦績から、メガバスUSAの販路拡大につながっていった。村山さんは、生き方そのものも数奇だったが、ビジネス面でも、そんな遊び心を発揮した粋な人物だった。

彼のこの営業戦略のおかげ(?)で、私のテクとメンタルも相当に鍛えられた。様々な対戦地において、ナマで接したリグや身につけたローカルテクも、のちのメガバスタックル開発や国内ロケでも大いに役立つことになった。浜名湖弁天島の一介の漁師の息子でしかなかった私のフィッシングアングルを広げてくれたのが、村山さんだ。

 

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現地では、明け方は気温3~4度C。ダウンを着ていても寒い。赤道に近いはずなのに。やがて、陽が昇り始めるとグングン気温が上昇し、日中は35度Cくらいになる。死ぬほど暑い。この寒暖の差は、砂漠の風土を示すものか、巨大なサボテンと、ペンペン草しか生えていない荒涼とした赤土の大地が延々と続く。そこへ放牧された牛たちがノソノソと大群で道を往来する。牛の群れと一緒に私は歩く。牛糞と砂塵とむせ返る熱波がまぜこぜになった独特な甘い匂いにやられながら・・・。地元の兄ちゃんが、「スリーピングインディアン」と勝手に呼ぶ巨大な岩山を背景に、私は、ひたすら、何の目的もなく、村山さんが何を考えていたのかもわからぬまま、枯れ木が無数に立上る湖で、ルアーを投げ続けた。

日本でこじらせた風邪もピークに達し、正直、2日間くらいは記憶がたどたどしい。途中、気を失いかけていた時間もあるかもしれない。情けないことに、ゼイゼイあえぎながら、標高のわりには酸素もなぜか薄く、カラダの熱の上昇に朦朧としながら、ただ無心に、村山の情念みたいなものに駆り立てられながら、湖のあちこちこちへと船をぶっ飛ばし、ひたすらルアーを投げ続けた。ただ、日本ともアメリカとも違う、やたらとハイライトとコントラストがくっきりした、大気圏を超えて宇宙が見えそうなほど荘厳な空が、胸をえぐるほど印象的に目に焼きついている。

 

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伊東由樹

 

ディレクターのイケガミさんとカメラマンの石原さんは、始終、私の容体に気遣ってくれつつも、ドキュメンタリー番組の鬼らしく、39度レベルの発熱、ゼイゼイ・ガホゲホやってる私に向けて容赦なくカメラを回す。「伊東さん・・・こんなときに、僕らを殴りたくなる心境かと思いますが、リアルに撮影するのがウチらのポリシーでしてん。そのまま死んでもカメラまわさしてもらいます。すんません!」

釣果へのリクエストも日本でのロケ同様、バンバン指示が飛ぶ。この調子だと、武装麻薬組織の銃撃戦がはじまっても、彼らはそれを冷静に撮影するだろね。仕事の鬼とは思っていたが、とんでもねえやつらっス(笑)。

 

 

伊東由樹

 

伊東由樹

 

伊東由樹

 

日本でもらった薬がまったく効かない一方で、カラダに染み込んだ仕事のカンってやつは、こんなときは頼もしいとも思った。どのみち頼りになるのは、己のウデしかないもんな。

回遊のリアクションパターンを引き当て、デカバスをなんとか獲る。ターゲットの回遊レンジは、5~8mと、産卵直前のプリスポーンにしては、けっこう深い。世界一潜るクランク、DEEP-SIXが火を噴いた。日米のプリスポーンパターンがまったく通用しない不思議な場所。緯度が織り成す特異な環境がそうさせるのか?

 

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現地でメジャーなスイムベイトよりも、DEEP-SIXが4日間、ランカーフィッシュを引き出し続けてくれた。リールは、開発中のハイトルククランキングリール、「LIN10MARS」(マーズ)。ロッドは、「ARMS-CHALLENGE」と、そのテクノロジーを村山がアメリカのグローバルタックル用にフィードバックさせようと目論でいた、「OROCHI-XX(ダブルエックス)(日本では未発売)」。そして、私が日本向けにフィードバックした「DESTROYER-X7」の2種の新型ロッドが活躍。8パウンダーのデカバスのランディングタイムは、70秒程度だった。自身の最速ランディングだ。第4のロッドマテリアルとして誕生した「YOLOY」プロテクションがもたらす圧巻のパワーは、このメキシコでランカーフィッシュを連続ファイトしてこそ、その効果を正しく検証できるものかもしれなかった。日本じゃ半年かかるテストも、ここなら3日もあれば出来る。

ARMS-CHALLENGEからのフィードバックとして、日本向けのX7にはハイテンション特性を際立たせたセッティング。そして、欧米向けのオロチXX(ダブルエックス)には、ハイトルク特性を際立たせた設計。元々は、ARMS-CHALLENGEで確立した技術なのだが、メガバスUSAが、新会社MOA(メガバスオブアメリカ)になったことで、現地にも開発部隊を置く、具体的な世界戦略タックル開発の第一歩を踏み出す環境が整いはじめた。

 

伊東由樹

 

伊東由樹

 

伊東由樹

 

同じスロープから出撃したアメリカ人クルー達の2艇が、アブレて魚の姿を拝めなかったから、フィールドは、実は厳しい状況だった。現地に通うアメリカ人アングラーの話では、いまやメキシコの10パウンダーは、次第にドリームになりつつあるという。世界中のフィッシングタックルと釣法が進化し、日々、それが大量に投じられるのだから、当然といえば当然か。

対して私は、ディープクランキングにこだわった展開によって、良い釣りができたと思う。最終日には熱も下がり、開発中のプロトタイプをはじめ、X7やNEWドラゴンコール(モノセル)など、その圧倒的な威力をカメラの前で実証することはできた。でも、私には、どこか釈然としない・・すっきりしないものがあった。釣師なんだから、釣れれば仕事としてはミッションクリアなのだけど、果たして、魚を獲っただけでよかったのか?

村山さんが求めていたのは、釣果ではなかったのではないか、と疑問が沸き起こってきた。

 

 

伊東由樹

 

伊東由樹

 

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ヘロヘロになるほど釣り込んでみて、村山さんがこの地にこだわっていのは、大きな魚や大量の釣果などではなく、もっと別のものだったのではないかと思うに至った。それは、最終日の夕暮れ。バスボートをぶっ飛ばしてスロープへと帰還中、ふと見上げたときに視界に飛び込んできた広大な山脈「スリーピングインディアン」を見た時だった。夕暮れのオレンジ色の空と真っ黒にトーンダウンした山々が見せる一瞬のコントラスト、その影絵ともいえる一瞬のビジョンとして浮かび上がって見えたのは、まさしく、それは、インディアンの寝顔だった。

生前、村山と釣りをしていると、いつも思うことがあった。私は、釣りなのだから魚を獲ってナンボなので、いつもボートデッキに装着したデプスファインダー(魚探)ばかり見ていた。ボトムの地形がああだとか、回遊レンジは何フィートだとか、あれこれ村山に解説するものの、いつも彼はウワの空でぼんやり辺りの景色を眺めていた。あの木はおもしろいカタチだなあとか、あの鳥は珍しい鳥だとか、この空は素敵だとか、ガチで魚を獲りにいっている私とは対照的に、いつも気の抜けたことばかり言うロマンチストだった。そして、「伊東さんは、忙しそうだね。」といって笑っていた。村山が生前に撮ってくれた写真には、あまり魚の写真がない。私にとっては、どうでもいい空と植物、動物や水の写真ばかり。さらに、肝心の本人の写真もない。私をはじめ、だれかの笑っている写真ばかり。

そこに、村山さんの視点があったのだ。

 

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きっと彼は、ひたすら釣果や結果、テクノロジーやスキルを追い求める求道的な私に、俯瞰の視野を持たせたかったのではないか。魚探が示す回遊レンジやプロットされた地形ではなく、リアルな空、リアルな風景、そこに広がる情景にもっと目を向けて感じて、人生をもっと楽しむべき、と言いたかったのではないか。クリエイターとしての感度を上げようとしていたのかもしれない。駆け足で走る当時の私を憂えていたのかもしれない。

約束の地は、彼にとっては、メキシコでなくてもよかったのかもしれない。私のように、一匹でも多く、1mmでも大きな魚を求めることではなく、釣りを通じて身を置けた環境に、もっと感じ入ってほしいということだったのではないか?魚探を設置した下を見るのではなく、きっと、上を見て欲しかったのだ。私が忙しかった、余裕がなかった、もがいていたからこそ、あえて私をこの荒野に連れ出したかったのだろう。当時、日本で沸き起こった外来魚防除法の論争中だったからこそ、宇宙まで突き抜けるようなこの空を見せて、二人が向かうべき世界の大きさを伝えたかったのかもしれない。もともと詩人のような人で、面と向かって本心を言うこともなく、謎かけみたいな会話が好きだった村山さん。私にとって、実の兄貴みたいな存在だった。永遠に、その答えを聞くことはできない。

 

 

 

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